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【レポート】弘前エクスチェンジ#06「白神覗見考」|佐藤朋子×永沢碧衣「向こう側研究会」公開勉強会


2024年4月6日から9月1日まで、弘前れんが倉庫美術館では、弘前エクスチェンジ#06「白神覗見考」(しらかみのぞきみこう)を開催しています。

本企画についてはこちらから↓


2024年6月1日に、「白神覗見考」参加作家の佐藤朋子さんによるリサーチプロジェクト「向こう側研究会」の公開勉強会として、参加作家の永沢碧衣さんを交えたトークを開催しました。司会進行は本企画担当の宮本ふみ(ラーニング・キュレーター)が務めました。

両作家は、山を「よくわからないもの/未知の領域のもの」と捉え、それぞれがリサーチや作品制作で取り組む未知のものへのアプローチの違いを登山に見立て、《頭の中で登山》するイメージを参加者と共有しようと試みました。
トークは2部構成で行われました。前半は両作家が各々の取り組み(制作・リサーチの活動)についてプレゼンテーションし、後半はプレゼンテーションを経て両作家がお互いに抱いた疑問や感想、さらには参加者からのコメントを交えながら対話をしました。

本記事では、主にイベント後半に行われた両作家による対話の内容を一部抜粋・編集してお届けします。




◾️「向こう側研究会」公開勉強会 イントロダクション


佐藤:皆さん、こんにちは。佐藤朋子です。私は「白神覗見考」に参加してリサーチをしています。私の出身は長野県の北の方なんですが、大学から東京あたりに出ていて、基本的に横浜にずっと住んでいます。なので、だいぶ首都圏に暮らしてる気持ちが強いです。さらに去年の10月から台湾に滞在し、来週からは韓国にも行きますので、よく移動していますが、ちょくちょく弘前にも来て「白神覗見考」に参加してます。


佐藤:ずっと弘前にいて白神山地について覗き見ているというより、すごい広い視点でこの山を囲みながら白神山地やその周辺のことを考える、というリサーチをしています。私が取り組むリサーチプロジェクトは「向こう側研究会」と名付けています。弘前に来ても、白神山地というものはすごく遠くて向こう側に感じましたし、私は山に入ることも怖いと思っています。容易に近づけないものを「向こう側」と名付けて、近づかなかったり、どこか今いるところからも遠く感じたり、時間的にも遠かったり。そういうものを「向こう側」と名付けて、私一人でいろいろ動き回って考えるのももちろんですが、研究会として弘前にいる人やいろんなところにいる人と共に考えていけたらいいなと思って「向こう側研究会」を始めました。今回はその公開勉強会の一環として永沢さんとお話をするため、皆さんにもお集まりいただきました。

進行:「向こう側研究会」は、佐藤さん1人だけでぐるぐる考える活動ではなく、広く来場者の方や今日お集まりいただいた皆さんも、研究会の一員として、山に対してアプローチしてみることを試みる会になってます。
今回の公開勉強会全体のイメージは【頭の中で登山する】です。


進行:白神山地(山)を「よくわからないもの」だとか「未知の領域」と捉えた際に、山を見る地点が異なると、山の姿そのものが異なっていたり、山へのアプローチもそれぞれ違ってくると思います。
今日は佐藤さんと永沢さんからそれぞれのアプローチについてお話をしていただきます。皆さんも山を眺めている一員になって、今どの角度から自分は眺めているのかを頭の中でイメージしながら、ぜひお二人のお話を聞いて、勉強会に参加していただければと思ってます。
それでは、佐藤さんに続いて永沢さんからも現在どの地点から山を眺めているのか紹介をお願いします。


永沢:私は普段は秋田の横手市という県南の地区を自分の地元として住んでます。狩猟の免許を持っています。免許を取ったきっかけとなる北秋田市の阿仁という地域で、マタギの集落には偶然訪ねたことがきっかけで、今もマタギの方にお世話になって、一緒に猟に連れて行ってもらっています。
秋田も広いので、北と南だけで文化が違うような面白さがあります。普段は阿仁と横手を行き来して暮らしています。


永沢:去年あたりから白神山地のリサーチでお世話になってるんですが、私は普段秋田県側から白神山地を覗いていて、実際に山中を歩いたりだとかを「白神覗見考」と関係なくやってきてました。今回は西目屋地区だったり、青森県側から白神山地を見るとなった時に、もはや「見る」というより「入る」みたいな、何か不思議な感覚になりました。
あと最近は別の芸術祭関係で、長野と新潟の県境にある、また別のマタギの集落の方にお世話になっています。今年は最南のマタギ集落の土地を行ったり来たりさせてもらってるような状況なので、そこのマタギの人のフィルターを通して見る白神山地や山がまた違って見えてきています。個人的にはその辺も面白いなと思って、今回の「白神覗見考」では白神山地の絵(《山懐を満たす》)を描かせていただいた次第になります。

永沢碧衣《山懐を満たす》2024年 (撮影:木奥惠三)


進行:ではこれより、お二人それぞれのアプローチ方法についてお話をしていきたいと思いますので、セッティングをお願いします。



ここからは両作家によるプレゼンが始まりました。その様子はこちらの動画よりご覧ください。


両作家によるプレゼンは11分あたりから始まります。
・11:20〜29:20ぐらい 佐藤朋子によるプレゼン
・29:22〜53:18ぐらい 永沢碧衣によるプレゼン




ここからは後半の両作家による対話(内容を一部抜粋・編集)の様子をお届けします。


◾️よくわからないものへのアプローチ 違いから見えるもの


佐藤:すごく印象に残った話がいろいろありました。すごく気になったのが、熊の皮を膠にすることを「足跡を残す」とおっしゃっていたことです。「足跡を残す」=「記録を残す」ということだと思うんですけど、それが創作とどう関わってるのか、ということが非常に気になりました。また、熊の命をいただくことを「授かる」という言葉で表現していることも気になりました。授かった命がこのままだと腐ってしまうから膠にして足跡を残したいと思うことと、出会ってきたものとの記録や記憶を何かに残したいと思うことと、ご自身の創作というのは何か関係性は何かあるのでしょうか?

永沢碧衣《共鳴》2023年 (撮影:木奥惠三)



永沢:山や川の近くで暮らしていると、さまざまな「足跡」から情報をもらうことが非常に多くあると感じています。例えば、熊を追うにしても、熊がいそうなところを探すことからはじまります。何か匂いがするだとか、彼ら(熊)本体ではない何かからのメッセージを受け取って、彼らの場所まで誘われる感じや、地図を頭の中で描き出すようなことがあります。
いただいたものをそこで終わらせるっていうよりも、人間でも熊でもいいですが、自分以外の他者に見える形でさり気なく自分なりの足跡を残せたら、その足跡をまた別の何者かが辿って、その地図の続き・山の続きを描いてもらえるのかもしれないと思っています。
空き家と同じように、山も何かしらが生き続けないと、どこまでも朽ちていくもので、人が入らなくなった瞬間から何かが変わります。例えば、熊が減った瞬間に森の姿が変わるみたいに、自分たち人間も含めてその生態系の一つだという認識が強くあります。山じゃなくても都会でもどこにいても、その地上で生きてる一員として、いたはずの誰かがすっぽり抜けてしまった前後の風景を見比べると、失ってしまったと気づくものはすごく大きいのではないかと思っています。


永沢:以前、秋田の阿仁集落で作品を展示した際に、コロナ禍だったので閑散としたところをあえて選んで展示したのですが、その会場に熊が出たことがありました。ガラス張りで外からも見える会場で、熊の絵だらけの展示だったので、会場のスタッフも気づかないぐらいに展示作品と溶け込むようにリアルな熊がそこにいたらしくて。来場者の方が知らせてくれたのですが、そういう外からの視線で熊がいると言われない限り、地元の人は熊がいるのが当たり前だから特に何にもやらないらしいんですよ。私は現場に居合わせたわけじゃなかったんですけど、それまで人のために描かれたと思っていた絵画が、描かれた対象の動物(熊)も私の絵を見るかもしれないという認識に変わりました。
自分は狩猟者として熊などの生き物に触れ、素材として彼らを持ってるはずなのに、それを使わないのは不自然かなと思いました。足跡作りに彼らの要素を使うべきじゃないのかと。創作のためにというよりも、自分も何かの痕跡や足跡を残していけないかという思いで制作しています。


◾️未知の領域の内側と外側


佐藤:私は体力の自信もありません。小学生の時に学校で行われた登山合宿では高山病になってしまったトラウマもあり、山はどちらかというと避けて生きていきたいと思っています。熊もすごく怖いので、山に入ろうとも思えないし、入れない。白神山地に対するリサーチも、結果的に外側から覗き見る感じになりました。


佐藤:普段、市街地で生きているので山を感じることもあまりないですが、そんな中で永沢さんのお話を聞いていると、私が見えてないこともたくさん見えてるだろうし、白神山地を覗き見るという関係性以上に、もうすでに多くのもが「見えている」のではないかと思いました。でも、今日の話を聞いてると、むしろ匂いや足跡、痕跡といった言葉が多くて、山の中に入ってもなかなか見えない印象を受けました。
向こう側的なものがどんどん広がっているのかもしれないと思ったのですが、今の永沢さんからは何が見えていて何が見えていないですか?


永沢:その辺はすごく慎重に探ってるところです。全てを見えている気になっていると、怖い目に合うこともあります。知らなかったからこそ回避できた危険もたくさんあると感じています。
自分では山/未知の領域の「中に入る」という気持ちは持たないようにしていて、常に他者であると思っています。観察だとか、よく周りを見ておくという意味で、引いた目線を持っておく感覚です。
物理的に山の中には入るけど、常に引いた目線を持っておくのは大事な気がします。創作をすると、つい思考が内に入ってしまいがちです。なあなあになってしまいがちなところを、自分の中で「ここまでだ」という線引きをしておかないと、いざという時に何か不幸なことになったりとかもあります。あえて知らないでおくと、用心深くなれますし、自分の感情とか知識、アイディアや想像など、名前がない状態だからこそ見えてるものが助けてくれる。


永沢碧衣《共鳴》2023年(部分) (撮影:木奥惠三)



熊が怖いという感覚も、自分が狩猟を始めてもずっと抱き続けてます。変に馴れてしまって、「私は大丈夫です」という態度になるといけない気もします。例えば、熊から見ると、山の異物である自分を熊はどう受け止めてるのかを想像した時に、馴れ馴れしくもしないし、かといって危険な目に合わせるわけでもなく、どう反応するのかを想像したり観察するとことで得るものが多くなると思っています。そこに馴れ合わずに馴染むことや安全を自分の身で確保するために、うまい線引きと視野の獲得の仕方、知識の獲得の方法の塩梅を探ってる感じです。


◾️向こう側とこちら側の往来


佐藤:外側から対象物を見てる時に、あまりにも知らなすぎると逆に妄想や幻想を乗っけてしまうことがすごく危険だと思っています。それは常に起こり得ると思っていますが、永沢さんの話聞いてると、幻想、妄想、想像みたいなものの内側に入り過ぎず、こちら側とあちら側を行き来しているのかなっていう感じがしました。それは山の中だからこそ起こり得るものなのでしょうか。


永沢:非常に感覚的なことですが、こちら側とあちら側を行き来すると得られるものの鮮度がいいと思っています。行き来することで空気が変わり、その場の雰囲気、自分の立ち位置が変わります。
例えば、山に入ることはアウトドアな活動ですが、一方で創作は引きこもる作業ですよね。外と内を行き来すると、体力も使うんですけど、その度に自分の何かが変わる感覚があります。
例えば、狩猟で授かった熊や、釣りで授かった魚を食べて飲み込むと、自分の身体も変わるし、常に更新され続ける身体の状態が、自然とも重なると感じています。目に見えて変わってく自然の風景があれば、一方で、知らないうちに変わっていく自然の風景や忘れられていく時間もあるとしたら、自分自身も同じような変化をしているのではないかと思っています。より観察対象に似てくるというか、近づくことができている気もするので、自分の場合は行ったり来たりっていうのがすごく合ってるのかなと思いました。

このトークをしていて気がつきましたが、私と佐藤さんの未知の領域へのアプローチのスタイルは違いますが、それは引いたり近づいたりする距離感の描き方が違うだけで、実は似たことをしてるんじゃないかなと。
山の中で歩いて足跡をたどっている一方で、頭の中では地図を思い描く行為をするのは、つまり、頭の中で想像の自分を動かして周りを観察しようとしていることだと思います。見たい対象に対するアプローチは佐藤さんのリサーチと似ている気がします。私はたまたま自分の身体でアプローチしているだけで、実は似たことを考えていて、似たようなアプローチにつながってるように感じています。


◾️創作することをどう捉えている?


佐藤:私が永沢さんのお話を聞いて思ったのは、動物に接近したその先に創作という目的があるがゆえに、そのよう距離感の取り方をしているのかなと。創作がなかったらこういう距離感をとらなかったかもしれないと思うことがあります。
私は創作を通して、物語を作り、それを他者と共有したいと考えています。その物語にはある意味、向こう側(過去/向こう側の時間や遠い土地/向こう側の地)を呼び込んで、「今いる人たち」と「今の時間」で共有して、一緒に考えたいと思っています。そういう空間は、作品じゃないとできないのと感じています。
永沢さんは絵を描くことを通じて、素材と関わりますよね。私は身体的な素材がほとんどないんですけど、永沢さんが使っている膠から熊の匂いがわかるかもしれないから熊も見られる作品かもしれない、という発想にはなるほどと思いました。
素材があって、それを絵の形で応用するということは、自分の創作とは全く違う共有の仕方をしています。でも一方で、永沢さんの絵を見ている人の様子をよく観察してみると、永沢さんの絵から読み解こうとしている人の姿を多く見かけました。「この動物たちは仲間だね」「森だね」と。物語を自分で作ってるような感じで絵を見ている方も多い印象を受けました。
永沢さんは絵を描くとき、物語を作ってる感じか、それとも風景を作ってる感じなのでしょうか?絵を共有することをどう捉えてるのかお聞きしたいです。


永沢:創作が目的になってるかっていうと、私の場合はちょっと違っていて、創作は手段のひとつでしかないと思っています。今いろんな表現ができると思うんです。写真撮ってSNSにアップするとか、会話をするとか、言葉にする、映像に置き換える、残すとかいろんな手段があります。私は絵画を描くその意欲の先には、「何か知りたい」とか「手繰り寄せてみたい」「良く見てみたい」とか、ちょっと気になるものに接近してみたいという思いが強くあります。
何か一石を投じるというか、多分アートとか絵画は異質で、作家個人の中で勝手に作ってるものですが、世間に異物的なものを投じることで、普段は見えない一面を見たり知ったりできる。自分一人だと何も身動きができてないけど、絵を1枚そこに投げ込むことで、いろんな人の反応を見ることができます。自分は知らなかった時代を手繰り寄せることに繋がったりとかするんじゃないかなと。
手段のひとつとして絵を描いていると、自分の作品の見え方が数年前の絵といま描いてる絵とで違いますし、自分も自分の作品との距離を感じることもできます。先ほど「足跡の残し方」と言ったみたいに、どういうものをそこに置き去るとどういう反応を周りから得られるのか、という点にこだわって創作しています。上手く一石投げれると良い反応が見れるな、とか、そういうのを楽しんでいる感じかもしれません。

私はライブパフォーマンスや、声や表情といったリアルタイムの温度感で伝える手段を持っていません。このようなトークの場だったり、オンラインでの勉強会だったり、リアルで会って得られるものや、距離がありながらもここに感じるものなど意識されてることがあったら佐藤さんにお聞きしたいです。

佐藤:今展示してる映像は、もともとライブパフォーマンスとして作っています。大勢の人を目の前にして話すと、皆さんすごい聞いてくれるので、私も話しながら一緒に考えることができます。おそらく皆さんが考えて聞いてくれるから、私にも影響してくる感じです。


佐藤朋子《Song of the Fox, August 2022 Version》2022年
展示風景(撮影:木奥惠三)


佐藤:ライブパフォーマンスは、過去の私が書いた言葉、他の人から聞いた言葉、見えた景色、写真を含めて、もう一度考えてみることをものすごい密度でできる場という感じがします。ライブで同じ場に実際に集まることは、危険なくらい強烈な力があると思っています。
すごく魅力的で、何かを共に考える上では素晴らしいと思ういますが、でも同時にここに来れない人もいます。だから、その場にいなくても、その場のことを考えることができないか、と思っています。それは「向こう側」を考えることにも繋がりますが、それができなくなるのはすごく怖いと思うんですよね。私は家にいることが大好きですが、家の中にいて、外のこと(向こう側)は考えなくていい時間や環境は快適だけどすごく怖い。だから距離や時間が関係のない映像というメディアを使うことで、物語をライブの場では会えない人とも共有できる。また、オンラインの研究会活動で、いまの現在地を画面の向こう側の参加者と共有できるのは、映像とも異なる時間軸と距離感で「向こう側」をそれぞれ垣間見るようなことができて、それもそれで魅力があると思っています。
絵画はこの世に1点しか存在しないところが、少しクマの死体みたいだと思いましたが…


永沢:そうですね。初めて熊膠で熊を描いた時は、ボロボロ泣きながら描きました。なぜその素材を残したいのかを考えた時に、滅多にない出会いのうえで、いただいている(殺している)命を食べさせてもらって、今の自分の体になっているけど、自分の体もいつかは無くなってしまう恐れも感じました。
自分の体以外の別の方舟に乗せるというか、その熊の記憶とか熊だったものを、もっと長い時間軸の中で思いを託すというか。その熊がいなかったことにしたくない想いがすごく強くあります。どうやったらこの子がただの有害駆除の数のひとつとしてではなく、個体としてここにいたんだ、ということを残せないかと考えて泣いた結果、今の創作になった感じです。


永沢碧衣によるスケッチやリサーチにまつわる資料の展示風景。
乾燥させた熊の皮、熊膠、骨や歯など。(撮影:木奥惠三)


永沢:自分の中で祈りを込めているような、何かにすがってるような、感情的なところでもありますが、やっていることを自分も含めて外から見るとすごい結構暴力的なことをしてる自覚はあります。でも自分の生涯を通してやりたいことならば、暴力的でも力を行使しなければという罪悪感も込めて、絵にあらわして背負っていきたいと感じています。

佐藤さんのパフォーマンスはライブでしか伝えられないものもあり、多分お客さんの反応も直に影響するだろうし、一人で生み出せないっていうことだとは思います。ただそれもオンラインでだったり、人の感覚みたいなものが拡張される世界だと、むしろオンラインならではの伝えられるものもあるのかなと思っています。
だけど絵画は古典的な手法です。一回描いたら変えられないように、なかなかそれ自体を拡張するのは難しい媒体です。どこかの機会で出品するとか、飾らせてくださいと言わないと広く公開できない。展示しただけでは自分が感じた温度感をそのまま伝えるってのはやっぱり難しいですし、ライブならではの伝えられることがあると思います。自分がライブでできるかどうかは別ですけど、パフォーマンスをやる意義はすごく感じています。


佐藤:私もリサーチしてる時に何かに出会うことがありますが、ある意味、ちょっと奪ってくるみたいな感じがします。しかも私は「向こう側」の人でもあって、外から来ている存在なので、結構罪悪感みたいなものを感じることもあります。永沢さんの場合は、身体的に素材を持ってくる、命をいただくこともあるわけですが、その行為に対する罪悪感みたいなものを、どう折り合いをつけていますか?

佐藤朋子による「向こう側研究会」の活動資料。
台湾や韓国での滞在先で書かれた佐藤のリサーチメモやスナップ写真など。
(撮影:木奥惠三)


永沢:本来背負うべきものが返ってきただけなのかも、と思うようにしてます。例えば牛肉を食べるにしても、牛を殺してくれる誰かがいますし、熊が里に降りないように誰かが守ってバランスを保ってくれている。戦ってる人がいるから畑は安全で、その畑から採れるものを食べられています。普段何気なく生活していると気付きにくいですが、誰かしら格闘の痕跡みたいなのがそこらじゅうにあります。
本当は享受する側としての当事者性みたいなのがあるはずなのに、その痕跡が見えない中に暮らしている。見えないというか見えずらいというか、道具やお金を使って見えないようにしてしまっている恐ろしさすら感じます。
私はできる限り⾃分で背負ったほうが⾃分の中で消化できると感じています。命を奪う罪悪感を抱えつつも、きちんと自分で折り合いつけて、どう供養するかとか、どう食べていくかとか、食べたからにはその辺で野垂れ死んではダメなんだとか、何かそういう気概に変換しないと行けないのではないかと思っています。




トークの次の日には佐藤さん、永沢さん、美術館スタッフとで、永沢さんの知人で登山ガイドをされている大川美紀さんの案内のもと、ブナ林の散策をしました。写真とともにその様子を少しご紹介します。


およそ2kmのコースをゆっくり2時間かけて散策しました。
ブナの樹皮には、葉っぱから枝をつたって流れた雨水が通った跡(樹幹流)がくっきりと見てとれます。
「ナタメ」(樹皮に刃物で印を刻む行為)の跡もありました。
折り返し地点近くには水を飲めるところもあり、みんなで休憩しました。
近年の大雨などにより土が流され根が顕になっているそうです。







会期末はL PACK.による体験型作品《いっしょくたにへば たげめぐなるはんで When you put them all together, it's a complete disaster.》を緑地で開催します!



日程:2024年8月30日(金)〜9月1日(日)
時間:17:00〜20:00(予約不要)
場所:弘前れんが倉庫美術館前の緑地(土淵川吉野町緑地)


小田桐奨と中嶋哲矢のユニット・L PACK.による体験型のパフォーマンス作品《いっしょくたにへば たげめぐなるはんで When you put them all together, it's a complete disaster.》を屋外で公開します。
津軽地方の夏の風物詩である宵宮で見かける屋台や、移動販売のアイス屋から着想を得て制作した屋台が美術館前の緑地に並びます。その屋台では地元企業とコラボレーションし制作した飲食物などを有料で提供します。
「いっしょくたにへば たげめぐなるはんで」は、津軽弁で「まぜこぜにすればとても美味しくなるから」の意味。年齢問わず体験できる屋外作品です。

みなさんのご参加をお待ちしております!





「弘前エクスチェンジ」とは

弘前出⾝あるいは弘前ゆかりのアーティストや、国内外で活躍するアーティストに、この地域の歴史や伝統⽂化に新たな息吹を吹き込んでもらうことを⽬指して、作品制作や調査研究のほか、地域コミュニティと関わるプロジェクトなどを⾏っています。展⽰による作品発表だけでなく、トークやレクチャー、ワークショップといったさ まざまな参加型プログラムも開催します。「エクスチェンジ=交換」という名前が⽰すように、本プロジェクトはローカル (地域)とグローバル(世界)、つくり⼿と地域の⼈々そして鑑賞者といった異なる視点が交差し、ふれあい、交換される場を⽣み出すことで、地域の創造的魅⼒を再発⾒することを⽬指します。
2020年の開館時より取り組んでいるプロジェクトです。







(写真:佐々木蓉子、宮本ふみ)
(編集・文:宮本ふみ)