池田亮司展 オープニングトーク (3) 美術と音楽/おわりに
弘前れんが倉庫美術館では、2022年4月16日(土)に「池田亮司展」のオープニングトークを開催しました。本記事ではトークの内容をお届けします。
出演|池田亮司(アーティスト/作曲家)、田根剛(建築家)
モデレーター:南條史生(弘前れんが倉庫美術館 特別館長補佐)
■美術と音楽
南條:色々とお話を伺うと、アート作品を作ること以外に、音楽関係の仕事も相当多いし、クラシック音楽とかにも関わっていらっしゃるようですが、そのマルチな活動の違う側面を、ちょっと語っていただけませんか?
池田:例えば、田根くんなんかは建築家として建築の学校行ってきちんとした教育を受けて建築をやっている方でしょう。でも僕はその専門がないんですよ。きちんと教育を受けた覚えがないので、何者でもないというか、未だに自分がアーティストとか言ってしまうことが、なんかおこがましいぐらいに感じているんですね。なので、音楽をやると言っても、まぁ通常の音楽とはちょっと違う形になるかもしれないですけど、基本は自分にしかできないようなことを見つけてやってる感じですね。実際、僕がやらなくても素晴らしい音楽、素晴らしい芸術がいっぱいあるじゃないですか、既に。人がやらないようなものを探してって言ったらおかしいですけど、例えば、車100台使ってプロジェクトやるとか、誰でも思いつくけどくだらないと思ってしまうようなことをやったりとか、データも使い方がそうですね。本当に皆さんが思っている以上にものすごく膨大なデータを1枚の絵にしたりしているんで、そういうアプローチっていうのは科学者のチームにとっては無意味なのでやらないと思うんです。僕がやっていることっていうのは、医者や清掃員や学校の先生とは違って、人間社会に直接的な意味ではほとんど役に立たないことだと思っているんです。アートも、展覧会に来てくれる人とか、音楽を聞いてもらう人とか、もちろん相手はいますけど、ただ白紙委任で全く自由にやらせてもらわないと受け答えができないというか。あれとあれとあれをやってくださいって言われるのが嫌でアーティストになったくらいなんで、言われた途端「辞めた」って次へ逃げるっていう。だからそれで、なるべく自由に、予算の話は別としてですが、内容に制限なくやらしてもらえる場所を探してこう移動している感じですね、地理的にもジャンル的にも。だから、美術の中でずっとやっていたら美術で成功したり失敗したりという、そういう考えができてしまうので、なるべく美術だけでやりたくないんですね。音楽だけでもやりたくないし。それだけでやっていると守るものができちゃって思い切ったことできないんですよ。守るものが何もない状態で次から次へどんどん行きたいということです。
南條:先ほどクラシックと協働したというのは、どんなことをやるんですか?
池田:電気を使わないだけで、全て作曲つまりコンポジションです。今回の展覧会のような目に見える作品もコンポジションです。
田根:先週くらいにストラスブールでしたっけ、シンバルの作品というのがあって、シンバルがバーっと並んで演じるという、それを作曲されていましたね。僕は見れなかったんですけど、ロサンゼルスのフランク・ゲーリーのあのディズニーホールの前で、ものすごいパワフルな車の作品、あれは車100台使ったのでしたっけ?
池田:巨大な音響システムを搭載した改造車、日本で言ったらヤンキー車みたいな100台の車を集めたっていう感じですね。あんまり詳しく説明したくないんですけど、ネットを見ればわかります。
100台のシンバルを使った作品というのは、ディズニーコンサートホールの前でやった時にホールの人たちが見て、逆にそのディズニーコンサートホールからコミッションを受けたんです。あのきちんとしたコンサートホールに収まるようなものをやんなきゃいけないから、とりあえず100という数字だけ合わせて何かしてみようなと。シンバルで10×10のグリッドを作って、10人のパーカッショニストにその間を歩かせながら演奏させるんですけど、結果的に単純にカテゴライズできないような、コンサート/パフォーミングアーツ/インスタレーションみたいなものになりました。繊細な奏法の指示、奏者の動きに対するコレオグラフィー、ステージ上での奏者と楽器のインスタレーション、結果として鳴る音響、すべてがシンプルなことの組合せなんですけど、いろんな僕のバックグラウンドがあの作品に全部入り込んでいます。
クラシックっておっしゃったのは、クラシックの人たちが関わったり招聘してくれるからクラシックと呼んでいるだけで、僕の中では単に電気を使わないアートプロジェクト。今までこれだけ電気とかコンピュータとかいっぱい使ってきて、一度制限を設けたんですよ。電気を使わなくて何ができるのか?コンピュータを使わなくて何ができるかってチャレンジですけど、それでいろんな曲を作って。頼まれる限りは作り続けようかなと思っていますけど、それを考えている時に全然違う美術や音楽のアイデアと結びついたりするんで、やればやるほど新たなアイデアが生成されていくんです。なるべく違ったことを同時にチャレンジすることは創造性において非常に健康的だと思います。
南條: 音楽業界の人が池田さんを見ると、全然違う人物像が見えているでしょうね。アート業界と全然違う。
池田:おっしゃるように、クラシックのアンサンブルのディレクターとかフェスティバルのディレクターは、僕が美術をやっていることは知っていても興味ないですね。美術のキュレーターも、僕がもちろん音楽やっていることは知っているけど、そんなに興味ないというか。舞台芸術、パフォーミングアーツ、コンテンポラリーダンスも、それぞれに独特のあり方があって、同じアートなのに全然違う業界同士。実務的なジャンル分けはもちろんそうあるべきだけど、創造性においてお互いにほとんど交わりがないのはおかしいとずっと感じています。
僕自身はアートは一つで、大きな括りでは創造面で全部一緒だと思っています。音楽自体がクラシックやヒップホップといったカテゴリーがいっぱいあるけど音楽は音楽、それと一緒のことです。なので、逆に僕はどこに行っても素人扱いなんです。別にクラシックの譜面なんか読めないし、絵も描けないし、ダンスや役者もできないし。だから、本当にきちんとした作曲家や美術家や演出家、もっと言うと色々な科学者なんかの業界の中で完結したコミュニティで生きている人々からは、僕のスタンスやアプローチというのは、理解されないか、くだらないって一蹴されると思うんですが、自由だけは確保できてるので気ままに活動させてもらってます。
田根:だからやれているという。やっぱりコンセプトが数学的なんですよね。音楽で言うと、どうしてもメロディーだったりする。池田さんの場合はコンポジションなので。作品を見ていただくと分かるんですけど。
南條:そうですよね。数学的だと思うんですよね。そういう思いはあるんですか?数学的だとか、そのメカニカルっていうか。
池田:数学への愛が僕は強い方なんですけど、みんな大体数学嫌いな人が多いから、あんまり喋るとみんなから嫌われそうなんですが...まあ、数学は素晴らしいです。
数学者からするといろんな意見ありますけど、基本的に数学は科学、少なくとも自然科学ではないんですね。自然科学は物理学にしても生物学にしても対象は自然なんですよ。どんなに小さい素粒子でも、どんなに大きい宇宙でも。その研究する取り扱う対象はすべて自然、森羅万象。それが自然科学。一方、数学の対象って、数とか関係性とか形。それって自然自体関係なかったりするんですよ。
音楽のあり方もこの数字の操作だけであるとか、音の高さ、低さ、ものすごく数学に似ているんですね。数学と音楽っていうのは本当に兄弟のような。それこそ昔から、ギリシャの時代から言われてるんですけど、僕はそういう風に身をもって感じてて、音楽を作る時に別に音を使わなくても、例えばこういうビデオのコンポジションをする時に音がなくても、もう音楽的なんですね。音楽的イコール、数学的で。そういうことでもうずっと頭がいっぱいなんです。
数学は科学ではなくて、科学の言語。数学なくしては科学が成り立たない。合理性や整合性、そのへん全部含めても、その大元の数学っていうのは、実は目的がないんです。無理やり言えば、美が目的というか。音楽も具体的な目的はないでしょう。芸術の目的もないでしょう、と思っちゃうんですね。もちろんいろんなあり方があるんですけど、今起きてるあの戦争のことに触発されて作品を作るっていう。そういろんな人がいて、そこが美術の場合いいと思っています。僕自身は全然違うスタンスなんですけど。音楽ももちろん反戦歌みたいな、でもそれは言葉の問題なんですよね。
僕の考えでは、音楽自体には意味というのはなくて、構造しかない。普通にJ-POPみたいなものを作るにしても、突き詰めればそこには構造とロジックしかない。だから、アートは究極に無意味な世界であって、意味は受け手が作り出していくものなんです。例えば、音楽のコンサート行って誰もモーツァルトのこのメロディーが何のコンセプトがあるとか思わないでしょ?僕はそういうふうに自分の展覧会を見てほしいんですよね、コンサートのように。
■おわりに
南條:例えば、データの数字が流れている作品があるじゃないですか。そういうのは、やっぱり目で見る音楽のような鑑賞の仕方でもいいということですかね?
池田:鑑賞に対してこう鑑賞してほしいっていう縛りはないですよ。すべて自由で、それ故に僕はほんとになるべく人前に出たくないし、作品のことについて喋りたくないんですね。もちろん僕が作っているから本人なんですけど、本人よりも作品自体の方が雄弁に語るんですよ、その本質を。アーティストが何か言ってしまったら、なんかこう頭の良さそうな抽象的なことを言ったら、もうみんなそれに囚われちゃうでしょう。何も言わなかったら答えがないからいろんなふうに捉えることができるのに、作った本人がしゃしゃり出て「これはこんな感じのコンセプトです」って言った途端、ものすごく無粋なものに成り下がってしまう気がして。だから、本当の意味ですごい真摯な態度として語りたくないんですね。
南條:田根さんは何かコメントありますか?
田根:僕はいつもパリでお会いしてこういう話をしてくださる関係なんで、池田さんが今回公開対談に出てくださるなんて、今まで聞いたことなかったんで驚いていました。そういった意味では今日の話のように、数学や音楽の話とか、作品自体よりも池田さんがいつも何を考えているかってことを公の場で語られたのは貴重な機会だと思います。パリでお会いした時にこういった話を聞いていて、池田さんが見ている世界を見ながら、先ほどの音と数とか、数学が物理の言語だから、とさらっと言われるんですけど、その通りだなと。建築という物理的な人を扱ったり物を扱うので、気を抜くと、そういう抽象的な思考が薄れがちなんですけども、そういうところでもう少し自分の知性を、しっかりと頑張ろうという感じです。
南條:多くの人は建築も数学的なんじゃないかと思っていると思いますが、どうですか?
田根:数学的な要素はあるけども、建築はどちらかと幾何の世界が強いです。幾何学の世界をどう構築していくかっていうのは、知性の中では大事な事項ではあると思うんですけども、そこはまだ僕自身は、矛盾や葛藤も半分抱えています。これだけ近代で知性が進んでインテリジェンスが上がっていった。でも自分の場合は、やっぱりその置き去りにされてきた、世界各地で人間がこれまで作り上げた叡智の方に興味があります。その考え方を、今は建築の場合は量よりも固有性、1個しか作らないことを肯定していきたいという気持ちが強いです。
南條:池田さんは話すのが嫌いだと言いながら、随分話していただきましてありがとうございました。それから田根さんも普段なかなか話を聞く機会がなかったんですけれども、ここでゆっくり話が聞けて良かったなと思います。どうもありがとうございました。